さくさべ坂通り診療所 がんのホームドクター

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♯04 私が届けたい音楽は、何なのだろう

≪私が届けたい音楽は、何なのだろう≫

 さくさべ坂通り診療所の看護師さん方にご協力を頂いて、月に一回のスタジオで行うピアノのコンサート「小さな音楽会」を始めた頃、大袈裟と思われるかもしれませんが、私は、とにかくいつもこの音楽会のことを考えていました。自分の日常生活、そして仕事をしながらも頭の中で、毎月行う10曲程のプログラミングをしながら、時間を見つけては、いただいたリクエスト曲の練習をする日々でした。気負っていたのです。自分なりのプライドにかけて、唱歌であれ、歌謡曲であれ、より美しくアレンジされたもの、豪華に聴こえるものの楽譜を探し回っておりました。こんなに素敵な編曲なら、患者さんもきっと喜んでくれるに違いないと。
 上級レヴェルで、華やかで美しい編曲ものとなると、1ヶ月程の練習では、とても余裕を持って弾ける程の仕上がりにはなりません。残念ながら、上手くまとまった時でも、必死さだけを伝えるような演奏になっていただろうと思います。歌心は持っていてもミスタッチをし、音の響きが足りず……。そういう危なっかしい演奏をいつしか看護師さんから、「福島節」と名付けられていました。決して悪い意味ではありません。全くその通りです。それでも一音一音、心を込めて患者さんに届いてほしいとの願いに間違いはありません。それも込めての「福島節」です。

しかしながら、果たしてこんな演奏で患者さんの心に届いたでしょうか。こんなことなら、リクエストをいただいた曲のCDを流して、皆さんで一緒に鑑賞した方がまだましだ……。(実際、音楽療法の一つの方法としてあります)と、思うこともありました。患者さんから感謝の言葉を丁寧にいただき、喜んでくださっても、いつも音楽会の帰りには、「今日の演奏は、これで良かったのだろうか…」と、気持ちが沈んでおりました。それでも、その帰り道では、必ず楽譜屋さんに立ち寄って、次回の音楽会のために、より素敵な曲の楽譜を探している自分がおりました。

ある日の「小さな音楽会」(スタジオで行うコンサート)の時のことです。
音楽に詳しい患者さんから「福島さん、音楽は、流れさえ止めなければいいんじゃないかな。」とアドヴァイスをいただきました。何と、音楽をする者としては、イロハのイの字のご指摘です。私は、イロハもさて置き、曲を華やかにすることばかり考えており、自分の中で空回りしていたのかと思うと、恥ずかしく、これまで音楽会に来て頂いていた患者さん皆様に申し訳ない気持ちで一杯になりました。心に余裕のないピアノでは、何も伝えられないのです。

また、ある日の「ホームコンサート」(患者さんのご自宅に伺って行うコンサート)のことでした。その日伺った患者さんは、ITを使いこなして、英語の音声を教えていらっしゃる大学の先生でした。ご自宅には、ピアノがあり、私は、クラシック曲やお好みの映画音楽を気持ち良く弾かせていただいておりました。その先生である患者さんから、「あゝやっぱり、人の手で奏でられるものは素晴らしいねえ。」という言葉をいただいたのです。その瞬間、私は、頭を殴られたような衝撃で、一瞬にして目が覚め、涙が出る思いでした。
先にも書きましたように、私なんかの演奏よりCDなどを流して一緒に聴いた方が、よほど良いのではないかと、落ち込み思うことがありましたから、私にとってどんなに力のある言葉ををいただいたことでしょうか。
それからは、余計なことなど全く考えずに、私の思いを患者さんに精一杯届けることだけを考えるようになりました。

患者さんから教えられたことは数知れず、励まされる思いで今日まで来たように思います。
二度とない出会い、そして二度とない音楽会の時間をどのように患者さんと共に過ごすのか、大切にしてもしきれない貴重な命の時間なのです。スタッフの皆さんと音楽会を開くこと、そして、楽器と楽譜を持って患者さんのご自宅のベッドサイドに伺うことに大きな意味があるのです。こんなにも大事な意味が、私のすぐそばにありながら、その頃は、私は全く気付かないで、別な上辺だけのことを追い求めていたのです。

≪音はいらない、声もいらない、人の心に届くのは≫

プライドも自信もいらない。奏でる音楽の音数は少なくて素朴でいい。美しい音のメロディーの線の先が患者さんのところに伸びて行き、心に届けられたら、そういうのがいい。それから、肩の力を抜き、患者さんの望まれるままの、素朴でいつの間にか鼻歌が出て来るような演奏がいい。
歌もそうです。オペラ歌手のように上手でなくていい。囁くような歌が聴きたい。
演奏者と聴いてくださる方との距離もない方がいい。すぐ近くで寄り添える距離がいい。

「小さな音楽会」「ホームコンサート」は、患者さんが望むもので、演奏者の演奏会ではない、演奏者の発表の場でもない、豪華なアレンジ曲を押し付ける場でもないのです。
私の中で、少しずつ届けたい、寄り添いたいものが何であるかが見えてきました。

私の周りには小さい時からピアノがあり、世界の一流のピアニストに憧れ、好きなCDを揃えて常に音楽があり、またピアノ教師になってからは、朝から晩まで音楽に浸り、生徒を育て、時には音大受験やコンクールで生徒を競わせること、そういうことが私にとって常であった環境が、正直、素朴な音がどれほど大切か、人の手で誰かのために音を紡ぎだすことがどんなに素晴らしいことか、ということをなおざりにさせていたのではないかと思います。私に出来ることは何か、そして音楽の原点に戻って考えさせてくださったのは、患者さん方だったのです。

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